トマス・アクィナスに学ぶドミニコ修道会の思想として、前回は、「善とはなにか」をテーマにしました。
トマスが『神学大全』の中で、「ものは有であるかぎり、そのかぎりにおいて善である」というように規定していることをみました。
本日はその続きとして、「悪とはなにか」についてのトマスの教えをみてみましょう。
トマスやキリスト教神学がいうように、「存在=善」なのだとすると、では「悪」とはなんなのか、どう説明するのか、ということの方が難解な問題になってきます。
実際のところ、『神学大全』の中でも、「善」について書かれている部分はそれほど多くなく、それよりも「悪」について書かれている部分のほうが圧倒的に多いのです。
それでは具体的にみてみましょう。「悪とはなにか」について、トマスは以下のように書いています。
闇が光によって知られるように、(中略)、悪の何たるかも、善の特質から理解されるべきである。
「善」とはおよそ望ましきものを指し、すべての本性は自らの存在と完成を希求するものであるから、すべての本性の存在と完成が「善」という性格を有する。
※本性(ほんせい)・・・もの本来の性質
それゆえ、「悪」は、ある存在とか、ある形相または本性を表すものではありえないのである。
※形相(けいそう)・・・ものに性質を与える本質
してみれば、「悪」という言い方によって「善の不在」が表されているというほかない。
すべての形相は善という性格をもっており、同様にいかなる欠如も、それが欠如たるかぎりにおいて悪という性格を有しているのである。
悪の特質は、つまり何ものかが現に善を欠落するというところにあるのであり、だからして、悪はもろもろの事物において実際に見いだされる。
いかがでしょうか。
トマスは、「すべてのものは存在するかぎりにおいて善である」と規定するわけですから、悪という存在を認めないのです。
つまり、「悪」は存在しないのです。
ただし、悪という概念はあるわけですから、それを規定するために、「悪」とは、善が存在していない、または、欠けている状態であり、「有」ではなく「無」である、と説明するのです。
これは、私たちが、「善と悪という対立概念」で考え、ときには、「善と悪との闘い」などの言い方をする感覚からすると、おおいにズレがあるように思えますね。
ところが、キリスト教神学においては、「存在=善」という考え方が一般的であるように、「悪=存在の欠如」という考え方が一般的にとられているのです。
この考え方は、トマスが確立したものではなく、前回の記事で挙げた「アウグスティヌス」が、トマスの生きた時代より900年も前に確立したものだとされています。
( VERITAS(真実)を見つめている 聖アウグスティヌス)
アウグスティヌス(354-430)は、キリスト教神学の父とされており、後世の神学に多大なる影響を与えました。トマス(1225-1274)は、キリスト教神学にとって中興の祖といったところでしょうか。
トマスによる上記のような論証に対しては、批判もあります。
悪は存在する、悪は有である、という立場からは、トマスが、「悪」と向き合っていない、悪が見えていない、と批判することになるのです。
しかし、それに対してトマスはきちんと反論しています。批判(異論)と反論を通じて学問を深めていくことに、トマスが確立したと言われる「スコラ神学」の大きな意義があるのです。
そこで、次回は、「悪」とは存在の欠如である、とするトマスの論証に対して、どのような批判(異論)があって、トマスがそれにどのように反論しているのかを、具体的にみていきましょう。
高田三郎 日下昭夫 『神学大全 第4冊』 (創文社) 1973
絵画の写真は「ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典」より