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チュータ日誌

チュータのひとりごと 第234回(47キロの体重と少年時代の思い出(1))

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「体重の変化を観察することは,健康管理の一つの方法である。」ということで,入浴の際に体重計に乗ることがある。

 わたしは,ここ20年くらいの間,47キロ前後で体重が推移している。何かの会合で他の先生方やご父母と食事を共にするとき,体重のことによく触れてきた。47キロだとわたしが言うと,相手は「うらやましい。」という言葉で反応することが多い。しかし,わたしの体重にはわけがある。

 先日,高2生を対象にホアン理事長の講話があった。理事長の講話を聞く機会は高校生になると滅多にないことで,高2生にとっては貴重な体験であった。

 その際,理事長からわたくしにも話をするようにとのことで,理事長に続いて少し話をさせてもらった。

 この話の中で,わたしは自分の少年時代の話をした。現在と何が大きく違うかということが分かれば,先ほどの47キロの話が理解してもらえるのではないかと思う。

 最も大きく異なるのは,食糧事情である。わたしは,戦後間もない昭和22年の生まれで,しかも誕生の地が瀬戸内海の興居島(ごごしま)であったこともあって,少なくとも幼少から小学生の間は,まともな食べ物はなかった。牛乳は病人の飲み物であったし,バナナなどは輸入品ということもあって,口に入れたことがない。麦飯の弁当がすべて米飯の弁当になったのは中学になってからであったと記憶している。漬物の白菜だけをおかずにして食事をしたことがよくあった。家族用の一皿の白菜の漬物を平らげてしまって,よく母親に叱られたものである。その当時,芋粥などは御馳走であった。

 家の手伝いは,今考えてもよくやったと思っている。家が散髪屋であったため,ボイラーやストーブに火を入れるのは,長男であるわたしの役目であった。当時は石炭を利用していたが,この石炭に火をつけるのに,かなり苦労した。石炭に火がつかないために,手や顔を真っ黒にしながら,最初から火をつけ直したことが何度あったことか。「ボイラーマン」と家族から呼ばれ,いつの間にか,ボイラーやストーブに火を入れる名手()になっていた。


ホアン理事長.JPG
昨日の「物故者追悼式」です。司式者はホアン理事長でした。
献花.JPG
司祭による献花。


2013年1月

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