愛光学園

60周年特別企画ページはこちら

WWW を検索 愛光学園サイト内を検索

チュータ日誌

チュータのひとりごと 第378回(宮本武之輔銅像完成記念式典)

|

11月18日()の「土木の日」にちなんで,宮本武之輔銅像完成記念式典が道後のホテルで行われた。

 「この式典は宮本武之輔を偲び顕彰する会」(*鈴木幸一会長,*古川勝三副会長)が創立5周年記念事業として,「宮本武之輔銅像設置プロジェクト」を行った結果,銅像が完成し,この日を迎えたのである。

 わたしは,会員ではないが,宮本武之輔が*興居島(ごごしま)の生まれで,記念碑が建立されているのは小学生のころから知っていた。記念碑はわたしの実家から100メートルくらいのところにあり,偉人の記念碑であると聞いていた。しかし,どのような人物であるか,よくは分かっていなかった。

 新聞に寄付を募る記事が掲載されているのを見つけ,興居島で育ったことを誇りにしているわたしは,もう一つ誇れることが増えることを心からうれしく思った。さっそく,興居島で暮らしている同級生に電話をしたが,まだ,島民には詳しく知らされていなかったようである。わたしは寄付の申し込みを島民としてしたかったのだ。ところが,振込形式であったため,結局,住所は興居島ではなく現在の住所でせざるをえなかった。

 記念碑は興居島の役場のすぐ横に建立されており,その表の面には,「偉大なる技術者 宮本武之輔博士 この島に生る」とあり,背面には,「宮本武之輔君は正義の士にして信念に厚し 卓抜せる工学の才能と豊かなる情操と秀でたる文才とを兼ね具え終生科学技術立国を主唱す 知る者皆其の徳を慕ふ」と刻まれている。この表の面と背面の文字を小さいころに読んだかすかな記憶はあるものの,それがどのような深い意味を持っているのか考えたことはなかった。したがって,刻まれた文字を実際に確認したわけではなく,式典のパンフレットから引用させていただいたものである。

 宮本武之輔の略歴を放送大学客員教授の大淀昇一氏の紹介文から引用させてもらう。

 ――宮本武之輔は明治25年興居島に生まれ,小学校の頃,父親が事業に失敗し,全財産を失い中学校に進学できず,瀬戸内海航路の貨客船のボーイとなって家計を助けた。その後,興居島の篤志家宮田兵吉の援助を受け勉学の道に戻り,私立錦城中学校に編入学し,異父兄窪内石太郎の影響を受け工学のコースを歩む決心をする。第一高等学校を無試験入学,東京帝国大学土木工学科を主席(恩賜の銀時計組)で卒業後,大正6年内務省に入省する。

利根川,荒川の大規模河川改修を手掛け,荒川では,「小名木川閘門」の設計施工を担当し,大正12年から大正14年の1年半,鉄筋コンクリート構造物の研究のため,欧米諸国(フランス,ドイツ,イギリス,アメリカ)を歴訪した。昭和2年の信濃川大河津自在堰陥没事故で,信濃川が干上がり農業用水が枯渇する事態となったため,内務省の威信をかけた可動堰建設の陣頭指揮をとり,出水や風雪,風土病と戦いながら,わずか4年後の昭和6年に完成させ,越後平野を洪水から守り,民衆のために尽くした。

また,コンクリート工学博士となり,『鉄筋コンクリート』『治水工学』等を執筆,昭和12年に東京帝国大学教授(河川工学)を兼任する。――

東京大学名誉教授の髙橋裕氏の講演の中で宮本武之輔の人柄や言葉が紹介された。その中で,最も心に残ったのは,彼の信条「PRO BONO PUBLICO (ラテン語・公共の利益のために)」と「誰(どの分野の人)とでも話し合える言葉を持つ」という言葉であった。これこそ,本校の目指す世界的教養人の姿ではないかと直感したからである。

*鈴木幸一会長 国立新居浜工業高等専門学校校長・愛媛大学名誉教授(本校卒業生のお父様)。

*古川勝三副会長 八田技師夫妻を慕い台湾と友好の会顧問。

*興居島(ごごしま) 瀬戸内海に浮かぶ忽那七島の一つ 高浜港から船で15分のところにあり,現在住民は約1,200人で,ミカンの産地で有名。


2013年1月

    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

アーカイブ

カテゴリ

All Rights Reserved Copyright AIKOU educational institution