チュータ日誌

(2015/11/01)チュータのひとりごと 第472回(新潟出張)

  私学関係の出張で新潟市を訪問した。ずっと以前に長岡を一度訪れたことはあったが,新潟市は初めての訪問である。

 松山空港から伊丹経由で新潟空港に到着した。空港からはリムジンバスで新潟駅へ,そこから,会場のホテル・オークラまでタクシーを利用した。

 新潟は寒いのではないかと予想していたが,当日は爽やかで,気持ちの良い天気であった。

 早速,午後の会議があり,議題について討論が行われた。

 その後,懇親会があった。私学の会ということもあって,全国から参加している先生方の中には知り合いが多くいた。

 会が終わって,外出をしようと思い,ホテルから外に出て,すぐ引き返した。夜の新潟は寒く,風邪をひいてはいけないと考えたからである。

 翌朝,時間があったので,ホテルから外に出てみた。

 ホテル・オークラのすぐそばを信濃川が流れている。

 ホテルを出てすぐに,萬代橋(ばんだいばし)があり,対岸まで橋を渡ってみた。

 青空が広がり,爽やかな天気で,散策にはうってつけであった。

 橋を渡っているときに,信濃川に可動堰を造った宮本武之輔のことを思いだした。

 宮本武之輔は瀬戸内海に浮かぶ,忽那七島の一つ,興居島(ごごしま)の生まれで,わたしと同郷である。

 「チュータのひとりごと」,2012年12月2日の「宮本武之輔銅像完成記念式典」で彼の紹介をしていたので,同文を再度,掲載しよう。

 

 宮本武之輔の略歴を放送大学客員教授の大淀昇一氏の紹介文から引用させてもらう。

 ――宮本武之輔は明治25年興居島に生まれ,小学校の頃,父親が事業に失敗し,全財産を失い中学校に進学できず,瀬戸内海航路の貨客船のボーイとなって家計を助けた。その後,興居島の篤志家宮田兵吉の援助を受け勉学の道に戻り,私立錦城中学校に編入学し,異父兄窪内石太郎の影響を受け工学のコースを歩む決心をする。第一高等学校を無試験入学,東京帝国大学土木工学科を主席(恩賜の銀時計組)で卒業後,大正6年内務省に入省する。

 利根川,荒川の大規模河川改修を手掛け,荒川では,「小名木川閘門」の設計施工を担当し,大正12年から大正14年の1年半,鉄筋コンクリート構造物の研究のため,欧米諸国(フランス,ドイツ,イギリス,アメリカ)を歴訪した。昭和2年の信濃川大河津自在堰陥没事故で,信濃川が干上がり農業用水が枯渇する事態となったため,内務省の威信をかけた可動堰建設の陣頭指揮をとり,出水や風雪,風土病と戦いながら,わずか4年後の昭和6年に完成させ,越後平野を洪水から守り,民衆のために尽くした。

 また,コンクリート工学博士となり,『鉄筋コンクリート』『治水工学』等を執筆,昭和12年に東京帝国大学教授(河川工学)を兼任する。――

 

 東京大学名誉教授の髙橋裕氏の講演の中で宮本武之輔の人柄や言葉が紹介された。その中で,最も心に残ったのは,彼の信条「PRO BONO PUBLICO (ラテン語・公共の利益のために)」と「誰(どの分野の人)とでも話し合える言葉を持つ」という言葉であった。これこそ,本校の目指す世界的教養人の姿ではないかと直感したからである。

 

 萬代橋を渡りながら,公共の利益のために頑張った宮本武之輔の苦労に思いを馳せた。

 宮本武之輔こそ,「愛と光の使徒」であったと,興居島に生まれ育ったことを誇りに思う今回の新潟訪問であった。

 

 

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