チュータ日誌

(2018/09/05)トマス・アクィナスに学ぶ(悪とは その2)

はじめに

トマス・アクィナスに学ぶドミニコ修道会の思想として、前回は、「悪とはなにか」をテーマにしました。

トマスが『神学大全』の中で、悪とは「善の不在、善の欠如」であると規定していることをみました。

 

前回の記事はこちら

 

 

 

今回は、このようなトマスの論証に対して、どのような批判(異論)があり、それに対してトマスがどのような反論をしているかを、具体的に見てみましょう。

 

 

トマスに対する批判・異論

 

トマスは『神学大全』のなかで、自分の考え方に対する批判(異論)と向き合い、それらに対する反論も詳細に記述しています。

そのために、『神学大全』は書籍にして45冊もの膨大な量になっているのです。

(愛光の図書館のどこに所蔵されているか、わかりましたか?皆さんが勉強している机のすぐ隣ですよ)

 

その中のいくつかのものを簡潔に紹介しましょう。

 

 

反対対立するものは、いずれも一種の本性であり、アリストテレスも「善と悪との間には中間的な何ものかがあるのだし、また悪から善への復帰が可能である」と言っているのであるから、「悪」も「本性」である。

 

 

「善と悪とが区別できるのは、道徳的なものごとの場合においてでしかないのであって、そこでは、「悪」と呼ばれるのは、単に秩序を逸脱するものにとどまらず、他者を害するものでもあり、そのかぎりにおいて善と悪の間に何らか中間的なものが見いだされるのである。こうした道徳的な意味のものならば、悪から善への復帰も不可能ではない

 

 

「有」と「もの」とは転換される。悪がもろもろの事物における「有」であるとするならば、そこから悪は一種の「もの」であるという結論が導き出される。

 

 

「いかなる欠如も「有」たることができず、「悪がある」というときの「ある」とは、「ものがある」という意味とは異なり、「~である」という意味であって、「盲目が目においてある」という意味にすぎない。一部のひとびとは「ある」という言い方から、悪を一種の事物・ものであるかのごとく思い込んだのである」

 

 

神によって創成された事物においては、いかなる悪も見いだされるはずはない。

 

 

 

「神は、すべて、ものを全体としての善きものにつくるのであって、もしどこかの部分におけるより善きものにこれをつくるとすれば、その他の部分に、善を欠落する可能性を有し、そうしたものが存在してこそ、全体としてはより善きもの、より完全なものたるのである。宇宙の完全性は、もろもろの事物の間に不均等の存在することを必要とするのである。もし神がいかなる悪のあることをも許さないとしたならば、幾多の善が失われたであろう。たとえば、ロバ(獲物)が餌食になることなくしては獅子の生命が保たれることはないであろう」

 

(上記のやり取りの部分は、トマスのことばをそのまま引用することに努めようとしたのですが、どうしても長くて難解になってしまいますので、ところどころ改変せざるを得ませんでした。あしからずご了承ください)

 

小括

いかがでしょうか。

トマスは、「悪とは善の欠如」であり、存在として「在る」ものではなく「無」である、と論じていますが、上記の反論で見てきたように、トマスにおいても、「道徳的な意味での悪」は存在しているのだ、ということです。

実際に、『神学大全』の中では、人間が実際に為す悪について、悪徳および悪徳的行為、罪、原罪、などについて詳細に論じながら、その解明を行っています。つまり、トマスはけっして、「悪は存在しない」として悪やその議論と向き合うことを避けた、ということではないのです。

そこで次回は(ひと月ぐらい間を空けますが)、トマスやキリスト教神学が規定する「悪徳と罪」について、見ていきたいと思います。

 

 

参考文献

高田三郎 日下昭夫 『神学大全 第4巻』 (創文社) 1973

絵画の写真は「ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典」より

 

 

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