チュータ日誌

(2018/10/03)よみがえる愛光の歴史(学園誕生 前編)

はじめに

愛光学園は2013年に創立60周年を迎えました。もうすぐ70周年を迎えようとしている現在の愛光にとって、学園の歴史はとても長く、さまざまな人たちの思いにあふれています。

そんな愛光の歴史について、皆さんも知っているようで知らないこと、忘れてしまいそうになっていることもあるのではないでしょうか。

そこで、本日は愛光学園の歴史にふれてみましょう。今後、(できればシリーズ化して)時折、少しずつ振り返ってみたいと思います。

今回は、「愛光学園の誕生のとき」を見てみましょう。

 

カトリック教育を日本に広めようとする修道会の思い――。

西日本に有数の進学校を作ろうとする教育者たちの思い――。

その陰に隠された人間ドラマ――。

 

 

 

学校新設構想

1951(昭和26)年5月、スペインのアヴィラ修道院で、ドミニコ会のロザリオ管区会議が開催され、この中で、カトリック松山教会の司祭だった神父(兼 四国ドミニコ会会長)が、四国での中等学校設立を提案した。

 

四国の神父の間では、「布教のために必要であり、一般教育の中でカトリック精神に則り、道徳的な点に力を入れ、新時代の日本にふさわしい全人教育を……」という共通認識があった。

 

ドミニコ会では、1925(大正15)年に同会修道女会によって、松山市に美善女学校 (現·聖カタリナ学園)を設立していたため、男子校を新設することを考えた。

 

提案を受けた管区長は、四国には神父が少なく資金も不足していたものの、「管区として責任を持つ」との意向を表明し、学校設立へのゴーサインとなった。

 

 

松山設置を決定

同年11月上旬、神父らは松山商科大学(現 松山大学)の田中忠夫教授に相談を持ちかけた。

田中は、古くから松山教会の信者であり、同大学の前身である松山高等商業学校時代には「中興の祖」ともいわれた名校長として知られた人物で、学校設立に関与するのには最適任者であった。

 

設立場所については、徳島、高松、高知なども候補地に挙げられたが、相談を受けた田中は数日考慮の上、松山が良いのではないかと具申したところ、神父の間でも松山という意見が多かった。

そこで、翌12月、ドミニコ会は学校を松山に置くとする方針を固めた。

 

厳しい設置基準

設置場所は決まったものの難問が待っていた。私立学校設立については、私立学校審議会の意見を聞いた上で、県の認可を受ける必要がある。

 

このため田中は、県の私立学校審議会委員であった、私立松山城西高校の田村清寿校長に意見を聞いた。

 

田村校長によると、文部省の設置基準は厳しく、敗戦からそれほど間もない県内では、基準に適合している学校が一校もないというのが現状であった。

 

加えて、新制中学が各自治体に設立されたこともあり、私立中学·高校が多い松山では、私立校は増設どころでなく、二校くらい削減したほうが良いとの意見が強いとのことであった。

 

二人は話し合ううちに愛媛の教育の現状を憂うる話となった。教育の平等が強く叫ばれ、受験勉強に重きを置かなかった当時の県内では、優秀大学への入学者が極めて少なく、希望する大学へ行かせたいと思う親は、子どもを東京や大阪の学校へ入れているという状況もあった。

つづく

つづきは明日

次回は明日です。二日連続で上記のテーマを扱います。

 

参考文献

「愛光学園50年史」 愛光学園 発行(2002)

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