本日は昨日に引き続き、愛光の歴史をひも解いてみましょう。
愛光学園誕生の時、それに関わる人々の思い、隠された人間ドラマについてみてみます。
愛光誕生前夜、愛媛の教育を憂う男たちは
いったいどんな言葉を交わしていたのか。
いま、あらためて明かされる愛光誕生秘話――。
田中と田村校長との間には深い人間関係があった。田村校長は松山高等商業学校の卒業生で田中の教え子であり、田中を敬愛していた。
田中と田村校長が「愛媛の教育を何とかしたい」と話すうちに、田村校長は「城西高校を譲渡してもよい」との申し出をする。
事実、城西高校は経営難にあった。田村校長は、信頼する田中がつくろうとする学校への期待を込めて、「今のままでは私の学校の存在価値がない。田中先生、一石を投じてみては――」と申し出た。
学校の新設は難題だが、譲渡されるとなると問題は一挙に解決する。
好都合な話だが、田中は躊躇した。
田村校長の父の代から経営する学校を、簡単に譲り受けてよいものかどうか――。
しかし、田村校長の強い勧めを受け、田中は感謝して受け入れることにした。
私立学校審議会の雰囲気は、学校新設には反対という空気だった。
しかし、田村校長の「私立学校全体に益する」という主張が通った。これで、新たに認可を受けることなく学校を設立することが可能となった。
設立の目的には、道徳教育のほかに「有名大学を志望する若者の中等教育センターとする」という構想もあった。
1952年1月、田中が学校設立計画案を作成し、同年3月、マニラにおける管区会議で正式に決定した。
「愛光学園」と命名したのは、松山教会助任司祭をしていた神父だった。
候補として他にも「トマス学園」「ドミニコ学園」などの案が出されたが、人を愛する「愛(Amor) 」と、ドミニコ会の象徴である「光(Lumen)」を組み合わせて「愛光」の名を提案し、賛同が得られた。
「愛」はまた、「愛媛」の「愛」でもあった。
田中も、カトリック校のイメージが出過ぎないこの校名を喜んだ。
次回は未定ですが、また、愛光の歴史について見ていく回を設定できれば幸いです。
「愛光学園50年史」 愛光学園 発行(2002)