チュータ日誌

(2018/11/11)チュータのひとりごと 第574回(樋口建史氏講演会)

 10月26日(金)に本校14期卒業の樋口建史氏の講演会を中1~高Ⅱの全生徒を対象として開催した。
 樋口氏の紹介と講演会の内容を皆さんに紹介しよう。

 樋(ひ)口(ぐち)建(たて)史(し)さんをご紹介します。
 樋口さんは,本校の14期生で,東京大学法学部をご卒業され,1978年に警察庁に入庁されました。その後,和歌山県警察本部長や北海道警察本部長などの各地の警察本部長や,中央の警察庁警務部長や警察庁生活安全局長などを歴任されています。
 そして,2011年には日本の警視庁のトップである第89代警視総監に着任されました。また,ご退官後の翌年2014年にミャンマー国駐(ちゆう)箚(さつ)特命全権大使に任命され今年の3月までミャンマーのヤンゴンにいらっしゃいました。
 またフルマラソンに何度も出場されています。
  5年前に東京マラソン,翌年から4年連続でヤンゴンマラソン,そして,今年の2月には愛媛マラソンに出場し,完走されました。タイムは4時間12分だったそうです。
今日は,「愛光生にエールを贈る」と題して,学生時代の事や,警察官僚や外交官としてのご経験を通してお考えになられたことをお話いただきます。
 樋口さん,どうぞよろしくお願いいたします。

 樋口建史氏から講演会の原稿と経歴を送っていただいたので,ここに掲載したい。

愛光学園における講演      2018年10月26日

 ご紹介いただきました樋口です。
  私は、14期生で愛光学園と同い年の65才です。愛光が宮西町にあった時代の最後の卒業生です。現在のこの場所の愛光学園には、今日初めて来ました。こうしてこの場に立ちますと、52年前の春、憧れの愛光に合格し、入学の日の“晴れがましさと不安”の入り混じった思いが、胸に蘇ります。
今日は、中学1年生から高校2年生までお集まりいただきました。壮観ですね。私も中学に入学した時、高校生が、まるで違った世界の大きな大人のように感じました。皆さんには、今日の私は、どのように映っているのでしょうか?私も、いろいろな所で話をさせて頂く機会がありますが、これほど若い人達は初めてです。これほど幅広い年齢層も初めてです。
 母校でこのような機会を頂きましたことを大変光栄に思っています。
  さて、私は、松山市内の潮見小学校、愛光中学・高校、東京大学法学部を卒業しまして、当時の国家公務員上級職試験を経て、警察庁に採用されました。
 そして、それから35年間、いわゆる警察官僚として社会の治安を守り、人々の安全を守る仕事をしまして、2013年に、第89警視総監を最後に退官しました。その間、素晴らしい人との出会いがあり、仕事に恵まれ、充実した役人生活でした。もちろん、思い通りにならないことも少なからずありましたし、気持ちが落ち込んでどうしようもないことも何度もありましたけれども、どんな時も、人を大切にする、人との関係を大切にすることを心掛けることで、自分も救われたように感じます。月並みですが、「人生、至るところ青山あり」ですね。因みに、月並みの今日的用法は、正岡子規に由来するものだそうですね。
  それはともかく、その後、まさに青天の霹靂だったのですが、「大使としてミャンマーへ行ってくれないか」という話がありまして、外交の経験もありませんし、今の時期のミャンマーは経済開発が主要テーマですが、その経済も門外漢でしたから、不安はありましたけれども、日本のために、ミャンマーのために、一つ頑張ってみようと覚悟を決めまして、お受けしました。
2014年4月から今年の3月まで、4年間、日本外交の最前線でミャンマー駐箚特命全権大使を務めました。
 今日は、「愛光時代」と「大学時代」についてお話をした上で、「警察官僚としての経験」そして「外交官としての経験」について、お話をしたいと思います。
1 「愛光時代」
 まず、「愛光時代」ですが、晴れの日も雨の日も潮見から20分かけて、自転車通学でした。帰りは、友達と一緒に寄り道をしたり、(参考書を漁って本屋で屯することが多かったですが、)楽しかったですね。毎朝、教室に入りますと、すぐ白いトレパン(トレーニングパンツ)に履き替えて、2時限目が終わると、全員が、左程大きくないグラウンドに出て中間体操でした。最初にベートーベンの交響曲第九の歓喜の歌に合わせてグランドを何週かグルグル走るんですね。そのあと柔軟体操なのですが、グラウンドの縁に市内電車が走っていまして、乗客の人達が珍しげに見ていました。本当に懐かしい思い出です。先頭に立って走っておられた初代・田中忠夫校長のお姿が今も鮮やかに瞼に浮かびます。
  いつのころからか、憧れのようなものだったと思いますが、「東京大学法学部に入って、国家公務員になりたい」と思うようになりました。ですから、成績は、そこから逆算しまして、定期試験の都度、東大に合格可能なギリギリの順位、それが当時の私の計算では、学年で30番だったのですが、その辺りをキープできるように意識しながら勉強していました。実際には、成績は、試験の都度結構上下していましたし、余裕がなく、一喜一憂していたように記憶しています。
 一方で、終生の友人が大勢できました。12才から18才までの6年間というのは、心身ともに、人生で最も変化の大きい、大きく成長する時期ですから、その6年間を共に愛光で過ごしたことは、何物にも換えがたい宝物になっています。 
 大学入試は、自信はなかったのですが、願書は東大法学部にしか出しませんでした。強い思いが通じたのだと思いますが、運よく合格しました。
2 「大学時代」
  次に、「大学時代」ですが、合格できた解放感から、また、初めての大都会で親元離れての生活ですから、楽しいことばかりでした。気持ちが緩んでしまいまして、留年を重ねました。一旦緩みますと引き締めるのに苦労しましたけれども、何とか立て直しまして、国家公務員上級職試験を突破し、警察庁に採用されました。
 こうやって振り返ってみますと、何になりたいのか、目標は比較的ハッキリしていたと思うのですが、そのための努力は全くできていませんでした。
理想と現実が大きく乖離し、アップアップしていたように思います。しかし、そんな時でも、目標は絶対に変えたくないと思っていました。臆病だったのかも知れませんね。ただ、“拘り”は強かったように思います。
 いずれにしても、反省の多い大学時代でしたが、今になりますと、楽しかったことばかりが思い出されます。
同じクラスの40数名の友人とは、今も、年に数回集まり、和気藹藹、交友が続いています。
3 「警察官僚として経験したこと」
 次に、「警察官僚としての経験」についてお話ししたいと思います。 東京の千代田区・霞が関(官庁街ですが)には、約20の省庁があります。
 数ある役所の中で、なぜ警察庁を選んだのかですけれども、最初から、特に、警察庁に入りたいと思い定めていた訳ではありません。
  私の時代の公務員試験は、一次試験に合格し、二次試験の終わった後、(丁度、暑い夏休みの時期でしたが、)それから最終発表までの間に、希望の役所から内定を貰うために、それぞれが官庁訪問をする“習わし”でした。
私は、学生時代、東大の赤門近くに下宿しておりましたから、本郷三丁目駅から地下鉄・丸ノ内線に乗りまして、霞が関で降り、地上に出ましたところ、目の前に、石造りの古くて厳めしい5回建のビルがありまして、戦前は、内務省だったビルですが、警察庁は、その中にあったんですね。
「よし! ここから官庁訪問を始めよう」と思いまして、三階の警察庁人事課を訪ねましたところ、採用担当の課長補佐に高松高校出身の方がおられまして、いろいろ話をしているうちに、「君、よかったら是非ウチに来ないか」と言っていただいたものですから、思わず嬉しくなりまして、「ハイ!お願いします」ということで、警察の業務が何なのか、あまり知らないままに、決めてしまいました。
 これまでの人生を振り返ってみますと、「こうなりたいっ! 」という強い拘りを持って自分を鼓舞しながらやってきたようにも思いますが、節目節目で、自分でも意外でなのですが、思いもしなかった方向にススッと展開してしまうものですね。
この時も、この時の課長補佐は、後に、日本人で初めてICPO(国際刑事警察機構・本部はフランスのリヨン)の総裁を務められた方ですが、素晴らしい人との出会いによって、人生の方向が決まったように思います。
 さて、 皆さん!当たり前の存在ですから、かえって考えたことがないのではないかと思いますが、“警察”って、何だと思いますか?
  やや大仰ですが、国を統治するために欠くことのできない最も重要な機能が3つあります。「国を外敵から守ること」と「国内の治安を守ること」と「経費を賄うための税金を徴収すること」なんですね。つまり、政府をギリギリまでスリム化すると、国を守る防衛省と外務省、そして警察機能を中核とする内務省、そして税務と財務を司る財務省になります。
 それが、時代とともに行政サービスが精緻化し多岐に分かれてきましたから、お役所の数も20にも増えましたけれども、昔も今も、警察の役割が極めて重要であることに変わりはありません。
  ところで、皆さんご存じのように、日本は“世界一安全で安心な国”といわれています。 犯罪が非常に少ないですし、検挙率は非常に高いです。その他の事件や事故も、(残念ながら災害は多いですが、)少ないです。
しかし、本当の安心や安全は、そういった件数や数字だけで判断されるべきものではありませんし、また、得られるものでもありません。
  そうは言いましても、身の回りで犯罪や事件事故が多発しているようでは、流石に誰であうと不安になりますから、警察は、当然のことですが、発生した犯罪等については、キチンキチンと取り締まり、軽重に応じた適正な処罰が行われるように努めています。その結果、(警察は全ての犯罪等を取り締まることはできませんけれども、)そこは、一罰百戒の抑止力が働きますから、犯罪等を適正な水準にまで抑え込むことができるということになります。
  しかし、それだけでは、なかなか人々を安心させることはできません。
実は、日本を世界一安全で安心な国にしている本当の理由は、警察の勤勉さや取締り力の優秀さではなくて、日本の社会自体が、そこに住む人々に安心感を与える“優れた社会”だからです。そういった“優れた社会づくり”が、世界一進んでいるからなんですね。
私は、警察の究極の使命は、そういった“社会づくり”に貢献することだと考えています。
ここで申し上げている“優れた社会”というのは“犯罪や事件事故の起きにくい社会”です。それが“真に安全で安心な社会”だと思います。
  以下、私が、常々、警察官僚として心掛け、努力してきたことを3点、お話したいと思います。
(1)1つは、「犯罪や事件事故を、できる限り事前に抑止すること、事前抑止」です。
犯罪や事件事故は、ひとたび発生してしまいますと、たとえ検挙解決できたとしても、被害者の命はもちろんのこと、心の傷も容易に癒されることはありません。物的な損害でさえ100%の被害回復は不可能です。被害者だけでなく、加害者もまた不幸になります。皆んな、たった1度のかけがえのない人生を生きている訳ですから、不幸にしてはいけないんですね。
 事前抑止にこそ、できる限りの努力を傾注すべきです。
 また、事前に抑止した方が、起きてしまった後で対応処理するよりも、遥かに社会的なコストが少なくて済みます。想像してみてください。ひとたび犯罪や事件事故が発生してしまいますと、警察の犯罪捜査にも相当なコストが掛かりますし、被疑者を検挙してからも、裁判にも行刑施設の運営にも、膨大なコストが掛かります。
みんな税金で賄われる訳ですから、節約できる経費は節約すべきです。
(2)2点目は、先ほど、警察の使命は安全で安心な社会を作ることだと申しましたけれども、矛盾しているように聞こえるかも知れませんが、「安全で安心な社会を実現すること自体を、究極の目的にしてはならない」ということです。
 確かに、人々に安全と安心を提供することは、“最高の行政サービス”ですけれども、安全安心自体を究極の目的にしてしまってはマズイんですね。その先に、もっと大切なものがあるということです
安全安心というのは、あくまで“活力漲る生き生きとした社会”を実現するための土台或いは前提条件であって、それ自体が究極の目的ではありません。
 どういうことかと申しますと、例えば、交通事故を減らすために何か対策を講じる場合、制限速度を極めて低く(例えば時速10kmに)押さえて、厳しく取り締まれば、確かに、事故は少なくなりますが、人々の移動や物流が著しく阻害されます。そういった社会の活力を損なうような方策を安易に選択するのではなくて、ルール・マナーの向上を図り、道路整備や交差点の改良、技術開発等の方策によって、事故の減少を図るべきなんですね。
 一般的に、規制や取締りを強化すれば、事件や事故は確実に減少しますが、極端な規制強化は、社会を窒息させかねません。人々の日常生活や経済活動が窮屈になってしまいます。それでは、「角を矯めて牛を殺してしまう」ことになります。そこのところの匙加減が大事なんですね。
 もう少し申し上げるならば、仮に、「油断していても気を抜いていても事件にも事故にも遭わない極めて安全な社会」が実現可能だとしても、それは、決して健全な社会ではないのだと思います。それは“黄泉の国”に近いのかもしれませんね。そうではなくて、「人々が、自らの責任で、普通の注意を払って、自らの安全を自ら守ることのできる社会」、それが健全な社会なんだろうと思います。
(3)3点目は、「人の命や人権は最大限に尊重されるべきものであって、おカネで量れるものではありませんけれども、その安全安心といえども、できる限り少ないコストで実現すべきものである」ということです。
 つまり、できる限り無駄を省き、効率化が図られるべきだということですが、その際、しばしば議論になるのが、効率化とプライバシーはじめ人権とのバランスをどのように取るのかという問題です。
 例えば、街中に防犯カメラを設置すれば、犯罪や事件事故が起きた後の捜査が格段に効率化できます。それは間違いありませんが、善良な人々のプライバシーが脅かされるのではないかといった懸念があります。まさに、“公共の利益と基本的人権との比較衡量”の問題になります。
 どこでどのようにバランスを取るかは、時代とともに変化するものでもあると思いますが、最終的には国民の判断ですから、先ずは、広く人々に問題提起をして、人権の制約を伴う対策の必要性に理解を得なければなりません。
私は、こういった類の幾つものテーマに関して、その都度メディアを通じて、世論の醸成に努力してきました。
我々は、民主社会ですから、国民の理解と協力が得られなければ、如何なる施策も実施できませんし、たとえ強行したとしても実効性が上がりません。世論を醸成するための努力が非常に重要なんですね。
4 「外交官として経験したこと」
  次に、「外交官として、東南アジアにおける日本外交の最前線で経験したこと」を、掻い摘んでお話ししたいと思います。
  皆さんは、ミャンマーがどこにあるか知っていますか?
東南アジアの西の端にありまして、中国とインドに挟まれ、ベンガル湾に面し、絶妙の地政学的な位置にあります。頭の中に地図が描けたでしょうか? 人口5400万人の多民族国家です。国土は日本の1.8倍、大変な親日国です。ASEANのメンバーカントリー10ヵ国の1つです。
 ミャンマーは、以前はビルマと呼ばれていました。軍事政権が23年間も続いていたのですが、7年前の2011年に民主政権に移行しました。
 軍事政権の下で、アメリカはじめ世界から経済制裁を受けていましたから、タイやマレーシア等周辺諸国と比べて15年或いは20年遅れていると言われています。
 そのミャンマーが、今、経済を自由化し、“新たな国づくり”に取り組んでいます。 日本は、官と民が連携して、あらゆる分野で“ミャンマーの国づくり”を全面的に支援しています。日本は、ミャンマーにとって最大の支援国です。    日本の存在感は非常に大きいです。日本の好感度も非常に高いです。ミャンマーの政府も人々も、日本を信頼し、日本に期待しています。
  皆さんは、豊かで居心地の良い日本に暮らしていますと、TVニュースでは知っていても、ミャンマーの人々の本当の“貧しさ”がピンとこないのではないかと思いますが、多くの人々が今も電気も水道も何も無い生活をしています。所得は日本の30分の1に過ぎません。 教育も保健医療も、非常に大事な分野ですが、極めて劣悪な環境にあります。
  そんなミャンマーの人々が、「日本に憧れ、心から、日本に支援して貰いたい」と願っています。残念ながら、日本人の方はミャンマーに余り関心を持っていないように思われます。ミャンマー人のことをよく知らないように思います。両者の関係は、いわば“ミャンマー人の片思い”になっている感じがします。これを、是非、近い将来、双方向の関係にしたいと考えています。
  皆さんには、是非、“地球規模の視点”を持っていただきたい。世界に羽ばたいて欲しいと思います。それは、“愛光の校歌”にある「世界の果てに愛と光をもたらしゆかん」に通じるものがあるように思いますね。
 ところで、皆さん、日本外交の基本方針をご存知でしょうか?日本外交の基本方針は、「地球儀を俯瞰し、(まさに鳥が遥か上空から眺めるように地球儀を俯瞰し、)国際社会の平和と繁栄に積極的に貢献すること」なんですね。
日本は、この基本方針の下で、特に、発展途上国に対する“開発援助”に力を注いでいます。
  ですから、日本外交にとって、“新たな国づくり”に取り組んでいる今の時期のミャンマーは、非常に重要な対象国なんですね。もちろん、タイもフィリピンもインドネシアもマレーシアもベトナムも大事な国なんですけれども、これらの国は、既にある程度まで発展していますからね。その点、開発の緒に就いたばかりのミャンマーは、今、全力で支援することが必要なんです。 援助するのは、今なんですね。
ということで、(すべて日本国民の税金なのですが、)毎年、ODA(政府開発援助)を、円借款は1千億円以上、無償資金協力は200数十億円の規模で提供しています。これは、日本がODAを提供している約180の国と地域の中で、間違いなくトップクラスの規模です。因みに、日本のODAは年間1兆円を超えており、これは、アメリカ、ドイツ、イギリスに次いで世界で4番目です。
  日本は、モノやカネだけでなく、ヒトによる支援にも力を入れています。
ヒトによる支援は顔の見える支援ですから、心の通じ合う大事な支援なんですね。 ミャンマーの各役所に50名ものJICA専門家を送り込んでいます。
皆んな使命感に燃えた若い人達です。いわばミャンマー政府の“政策アドバイザー”として大活躍しています。日本の明治時代に大きな役割を果たしたお雇い外国人に似ていると思います。
  日本が支援に当たって心掛けていることは、日本が辿ってきた道を一方的に押し付けないこと、ミャンマーの人達の伝統的な価値観や家族観を損なわないような配慮をしながら支援を進めることです。日本も、戦後の目覚ましい経済発展の一方で、いろいろな社会的な歪や問題を経験してきた訳ですから、その反省を踏まえた支援を心掛けています。
 そういった日本の、相手の立場に寄り添った支援は、確実にミャンマーの人々の信頼を得ていると思います。
  繰り返しになりますが、さまざまな立場で、さまざまな野で、日本の若い人達が活躍しています。大使館員として、日本企業の駐在員として、留学生として、JICA専門家として、国連職員として、生き生きと活躍しています。
日本政府には、そういった志のある若者を育成し支援するスキームが幾つもあります。皆さんも、将来、是非、活用していただければと思います。
  時間がまいりましたので、以上で話を終わりたいと思います。
  将来、皆さんが、様々な分野で、そして世界の舞台で大いに活躍されることを心から期待しています。
 ご清聴、有り難うございました。

樋口建史  ひぐちたてし
・ 1953年4月 愛媛県松山市生まれ
・ 潮見小学校、愛光中学、愛光高校、東京大学法学部を卒業
・ 1978年4月 警察庁に入庁
・ 警察庁で、薬物対策課長、国際第一課長、刑事企画課長、政策評価審議官、生活安全局長 等を歴任
・ 警視庁で、外事第一課長、公安総務課長、警務部長、副総監を歴任
・ その他、1999年に和歌山県警察本部長、2005年に北海道警察本部長
・ 海外では、1985年 英国でCitizen’s Advice Bureauを調査研究
     2000年 ハーバード大学日米プログラムで客員研究員
・ 2013年1月 第89代警視総監を最後に退官
・ 2014年4月~2018年3月 ミャンマー駐箚特命全権大使

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