チュータ日誌

(2018/11/28)聖ドミニコの愛と祈り

はじめに

先月まで、「トマス・アクィナスに学ぶドミニコ修道会の思想」として、『神学大全』を題材にして、トマスがどのように宗教的真理を論証しているかについて見てきました。

 

トマスが理性(ソクラテス哲学)によって、ディベートの手法を用いて真理を証明しようとしたことは、「中世キリスト教世界に普遍的な神学体系を構築した」とも評される大偉業にちがいないのですが、その論理は難解で、日誌として読むには少々しんどくなってきたかもしれません。

 

そこで、このあたりでいったんトマスの『神学大全』をひと休みして、我々にとってもう一人忘れてはならない人物、聖ドミニコについてふれていきたいと思います。

 

まずは、聖ドミニコの生涯について大まかに見てみましょう。

 

 

カレルエガのドミニクス

1170年、スペインの旧カスティリャ地方カレルエガ(Caleruega)の貴族・グスマン家に、

父 フェリクス・デ・グスマンと、母 ヨアンナ・デ・アサ(Joanna、ホアナとも読む)の三男として生まれ、

Dominicus(洗礼名:ドミニクスまたはドミニコ、スペイン語名はドミンゴ・デ・グスマン・ガルセスと名づけられる。

現在のカレルエガ

 

7歳から、母方の伯父にあたる首席司祭の家で同年代の少年らと共同生活し、その影響のもとで初等教育を受ける。1184年(当時推定14歳)から、パレンシア大聖堂付属学校(後のスペイン最初の大学)で、哲学・聖書・神学を学ぶ。

 

1194年にオスマで司教マルティノにより司祭に叙階され(当時推定24歳)、オスマ司教座聖堂参事会の会員となる。

ここで、アウグスティヌスの会則のもと、さらに9年間、観想と勉学に励んだ。

 

1201年マルティノが死去し、同参事会会長ディエゴが司教に就任すると、 ドミニクスはその後任として参事会会長に就任した。(当時推定31歳)

 

1203年末、カスティリャ王の命によって、司教ディエゴに伴ってデンマーク使節団に同行したが、途中、 フランス南西部でカタール派(アルビ派)の異端の弊害を目撃した。

カタール派は、自分たちだけが真のキリスト者であると称し、魔術的な典礼をもちいて、信者らは臨終のときに無条件に清められて天使たちのもとに送られる、と約束した。その地方のカトリック教会はがら空きになり、修道院は略奪されていた。

ディエゴとドミニクスは、カタール派に対する宣教を行うことを決心し、フランス南部モンペリエで、その清貧と厳格な生活をさらに徹底させ、真理の言葉の説教活動に没頭し、そのままフランス南部で10年間説教活動を続けた

 

1214年夏、ドミニクスと 6人の同志の司祭は、フランス南部のトゥルーズで使徒的修道会の設立に着手し、翌年春、トゥルーズ司教の認可を受けた。(当時推定45歳)

 

その認可状には「我々は、兄弟ドミニクスとその同志を我々の司教区の説教者に任命する。彼らは修道者として生活し、福音的清貧の中に福音を宣教するものである」という、彼らの理念が明確に記されている。

 

1216年、教皇から正式に、説教者修道会(Ordo Praedicatorum)として設立認可を受けた。

当時、説教は教区を預かる「司教(bishop, ビショップ)」の任務であって、修道会の司祭(priest, プリースト)が、教区に関わりなく恒常的に説教する任務を与えられたことは、前代未聞のことであって、重大な革新だとも評された。

 

各地で修道院と会員数が増加する中、1220年にイタリアのボローニャで第1回総会を開催。清貧の托鉢修道会であることを確認し、学問と観想と宣教の調和を規定し、毎年総会を開催することを決議した。

 

翌1221年、ボローニャでの第2回総会では、説教者に不可欠な教会の教えの不断の勉学を強調した。

 

1221年の総会後、ドミニクスは自らの死が近いことを周囲に語ったという。

のちに教皇となるウゴリノ枢機卿に会うためにベネツィアを訪れていた中、ドミニクスにとって霊的な娘ともいえる修道女が、反対する家族に拉致・監禁されたとの報を受けた。

娘のもとへ駆けつけるためにボローニャに旅立ったが、猛暑と険しい道のりによって、ドミニクスの体力と健康は確実に奪われていった。

ボローニャのサン・ニコラ修道院(後のサン・ドメニコ教会)に着いた時には、もはやその力は尽き果てていた。

疲労と発熱と頭痛の中、娘に会い、若い兄弟(修道士)たちを訪ね、周囲の心配をよそに聖務を忠実にこなし続けた。

8月6日に容態が急変し、兄弟たちに見守られながら死去(当時推定50歳)。遺体は同市に埋葬された。

サン・ドメニコ教会(Basilica di San Domenico)ボローニャ、イタリア

 

1234年に聖人として列せられた。彼の最大の功績は学問研究を修道生活に組み込んだことにあるといわれ、ドミニコ会は後世の使徒的修道会の模範の一つとなった。

 

聖ドミニコの遺体(の一部)が安置されている石棺。1264年、二コラ・ピサノらによる。

さいごに

次回は、聖ドミニコの人生についてもう少し具体的にみながら、ドミニコが、キリストの教えと愛の実現のために、どのようにしてその生涯を捧げたか、もっとくわしく見ていきましょう。

 

参考文献

新カトリック大辞典編纂委員会 「新カトリック大辞典」 研究社 2002

P・ディンツェルバッハー,J・L・ホッグ 「修道院文化史辞典」 八坂書房 2008

M・D・ポアンスネ 「聖ドミニコ」 サン・パウロ 1999

写真は「ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典」より

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