ドミニコ会の創立者である、聖ドミニコの生涯についての記事を不定期で掲載しています。
前回は、ドミニコがオスマの司教座聖堂参事会員に抜擢(ばってき)された経緯を紹介しました。
さて今回は、オスマの司教座聖堂参事会員とは、どのようなものであったのか、もう少し見てみましょう。
オスマは司祭の町だといってよい。司教座聖堂の存在、そしてそれに付随する学校、神学校、司教座参事会の匂いが町中にしみわたっている。
司教は、当時の習慣によって、同時に地主であり、封建諸侯と並ぶ君主でもあった。
ドミニコが生まれ育ったカレルエガでは、焦熱地獄の太陽と酷しい寒さにさらされ、赤茶けた大地が少年ドミニコを限りない冒険の夢へと誘ったのに対し、オスマは彼を内的沈静へと誘う。
司教座参事会員の制服である白衣に黒い合羽、尖った頭巾をつけた若いドミニコは、どんなに熱心にここで祈ったことであろうか。
教皇グレゴリウス七世に始まった大改革は、まず、人里離れた聖域としての修道院の改革を手がけたのであるが、11世紀末にはこの改革が世に向けられ、一般人の住むこの世をキリスト者としての目標に向かわせることに努力を集中し始めた。
カスティリア地方の修道者たちは、この改革の推進者となる。
クルニーの修道院は、カスティリア地方の教会の再興の為に、王の最も良き協力者となり、偉大な修道者たちを数多くこの地に送る。
そのうちのひとり、セディラックのベルナルドは教皇勅使に任ぜられ、ローマからの帰途、南仏を通りながら修道院や教会から多くの修道者や司祭を集めた。
こうして、カスティリア地方のみならず、その周辺地方の教会も、これらの司祭たちの手によって復興されていく。オスマの復興に働いたのも、こうした司祭たちであった。
折しも、アルフォンソ七世の治下、イスラム勢力から国土を奪還し、スペインは統一に向かっていた。ローマや、西欧の諸国とのつながりも強化されてきていた。
国としても、宗教的にも、ヨーロッパの他の国々、さらにはキリスト教会全体との交流をとりもどそうとしていた。
しかし、十二世紀後半にはクルニーからの修道者の渡来も途絶え、より地域に根ざした活動が行われるようになる。
このとき、中心となったのが、オスマの司教座参事会であり、その司教マルチノと、参事会院長のディエゴであった。
教会改革の仕事を進めるに当たって、最大の壁は、司祭たちの無知と生活の乱れであった。
とすると、何故ディエゴがドミニコをオスマの司教座参事会にさそったかがうなずけるであろう。
彼こそは、まさに、この改革の大事業の最も良き協力者となる者だったのである。
オスマの司教座参事会は、聖アウグスティヌスの戒律を採用していた。これは、次のようにはじまる。
「あなたがたは、共に集まっているのであるから、あなたがたの家でひとつ心で生きなさい。
何物も自分の物とは言わず、すべてを共有にし、長上が各人に食物や衣服を分配しなさい。
しかし、皆が同じ健康状態ではないのだから、皆に平等にわけるというのではなく、各人の必要に応じてわけなさい。
使徒行録に、『かれらはすべての物を共有にし、おのおの必要に応じて分配していた』と書いてあるのはこのことである」
この戒律を採用するということは、初代教会の使徒たちが理想としていた、その同じ生き方をしようということである。
そして、当時の教会にあって、「初代教会にかえり、使徒たちの生活にならおう」の語は、教会改革の合いことばであり、心を天にあげる叫びであった。
「参事会員の中で、ドミニコは、すぐに明星のように輝き出した。彼はもっとも謙遜でもっとも聖なる者であった。その見事な霊の飛翔に誰もが目をみはった。」と伝記はいう。
ドミニコはこうして内的生活を深めると同時に、司教座聖堂での聖務日課に熱心にはげむ。
彼は、この後も、生涯の終わりまで聖務日課を愛し、ここに力と喜びを汲んだのであった。
スール・マリア・ベネディクタOP 「聖ドミニコの生涯」 聖ドミニコ学園後援会 1989(非売品)
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