本日も、ドミニコ会の創立者である、聖ドミニコの生涯についてご紹介します。
デンマークへの旅の途中に、ドミニコは南フランスでカタール派と呼ばれる異端者たちの村に宿営します。
そこで見た異端者たちの信仰は、聖書の教えに忠実に生きるドミニコにとって、大きなショックとなるものであったようです。
また、この出会いが彼のその後の宣教人生に影響を与えたであろうことは容易に想像がつきます。
前回に引き続き、くわしく見てみましょう。
カタール派は、自分たちだけが真のキリスト者であり、使徒たちの真正な後継者であり、「清浄者」であると主張した。「カタール」とは、「清浄者」という意味である。さらに、彼らの中には、「完全者」と呼ばれる人たちがいて、福音のもっとも忠実な弟子として、あがめられていた。
彼らは、カトリック教会で行われている「七つの秘跡(サクラメント)」の代わりに、「コンソラメントゥム」と称する魔術的な典礼を提唱していた。
あるカタール派の「完全者」が「信者」の臨終にあたって、これに按手(あんしゅ。手をかざすこと)すれば、その信者がどんな者であっても、その霊魂はたちどころにあらゆる汚れから清められ、この世においても、後の世においても、あらゆる苦しみを免れる、とした。
信者たちは、臨終のときに無条件に約束されている最後の「清め」をあてにして、生涯の間は神と教会との掟(おきて)も、道徳上のあらゆる掟も、守る必要はないと考えていた。
どれほど多くの信者が根拠のない希望に欺かれていたことであろうか。
領主たちが真っ先にこのえさに食いついた。彼らにとって、一人の「完全者」をその家に宿泊させて、自分の専属にすることで、臨終の際には、その霊魂をつつがなく天使たちの集いに送り込むことのできる強力な手に守られるのであるから、きわめてたやすいことであった。
このようなわけで、南フランス地方の伯爵や子爵が、一方においては、教会から破門されないよう用心しながら、他方においては、異端派の「コンソラメントゥム」の恩恵を期待できるように、巧みに立ち回っていた。
南フランスにやってきたカスティリアの使節団の一行は、このような実情を目の当たりにして、心を痛めるのであった。
彼らは、教会ががら空きになり、修道院が略奪されている嘆かわしい情景を目にした。
特に、誠実な多くの人たちが、自分たちはキリスト者であると自負しながらキリストの神性と十字架の印とを拒否している現実を、じかに見せつけられた。
司教ディエゴとドミニコとが、このように胸をえぐられるような悲痛の中で、どうして無関心でいられたであろうか。
このときのことについて、後に、聖ドミニコの最初の伝記作者の一人は、
「ドミニコらは、誤謬(ごびゅう)にあざむかれたこの無数の霊魂に対して、深い同情にかられた」
と記している。
※誤謬(ごびゅう)・・・まちがい。誤った論理。
マリ・ドミニク・ポアンスネ 著 岳野慶作 訳 「聖ドミニコ」 サン・パウロ 1999
挿絵・写真は「ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典」より
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