愛光学園の設立母体であるドミニコ修道会の創立者、「聖ドミニコ」の生涯についてご紹介する記事を、不定期でアップしています。
前回の記事では、ドミニコとオスマ司教ディエゴが、カスティリア王の命を受けて、スペインからデンマークへとおもむいたエピソードをご紹介しました。
この旅の帰路、ドミニコたちは南仏にて、異教徒であるカタール派に対する説教団のただ中に置かれることになります。(旅の前半にトゥールーズでもカタール派の村に宿泊しましたが、それとまた別の話です)
それでは、以下、くわしく見ていきましょう。
1206年6月のある日、少数の騎馬の一団がフランスのモンペリエに着いた。
オスマのディエゴ司教の一行である。
ローマを発った一行は、まずシトーに行き、そこで、ディエゴ司教はシトー会員の白い修道服を受けた。
そして、その帰路に、モンペリエに立ち寄ったのである。
オスマの司教座参事会副院長で、司教の貴重な伴侶であるドミニコも、もちろんその中にいた。
他に、オスマ教区の司祭数人、シトーから同伴してきた修道士数人、召使いと、荷物を積んだ馬が、その一行を構成していた。
次第にカタール派の勢力が強まる南仏の中で、モンペリエの町は、カトリックにとってほっと一息つける平和の場だった。
町に入ると間もなく、シトー会修道士たちの集会に出くわした。
対異端活動のリーダー役として教皇から勅使に任命されているシトー会の院長、アルノー・アモリイを中心に、
同じくシトー会修道士で、やはり勅使の任命を受けているピエール・ド・カステルノーとラウル、そしてその他の多くの修道士たちがそこに集まっていた。
ディエゴ司教は教皇から何らかの使命を受けて、そこに来たのであろうか。それはわからない。
とにかく、勅使に対するローマからの指令は、かなり頻繁に届いていた。1204年から1207年の期間だけでも、教皇から出された30通ほどの文書が現存している。
これは、当時の交通の便を示すと共に、この活動に対する教皇の非常な関心を示すものである。
ところが、現実にはなかなか教皇の期待通りにはいかなかった。勅使たちの善意と努力にもかかわらず、あまり効果をあげなかった。
しかも彼らは、特に、ナルボンヌの大司教への対処の仕方について、教皇が自分たちを理解していないと感じて勇気を失い、実りのないこの仕事をあきらめかけていた。
そこへ、ディエゴ司教の一行が到着したのである。
もともと南仏とカスティリアは、そう遠く離れてはいない。 勅使たちは、学、徳、行動力に優れたディエゴ司教の名声を聞き及んでいた。彼らは司教に助言を求めた。(続く)
スール・マリア・ベネディクタOP 「聖ドミニコの生涯」 聖ドミニコ学園後援会 1989(非売品)
挿絵・写真は「ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典」より