わたしはこれまで,家族のことを「チュータのひとりごと」で紹介したことはなかった。
ごく最近,家族の紹介等もあってよいのではないかという提言をいただいたので,わたしの父親のことについて触れてみよう。
わたしの父は大正3年生まれで,来年の3月に満100歳を迎える。9月の敬老の日には,松山市,愛媛県,そして国から100歳を祝う賞状や記念品をいただいた。
父は小学校の時に自分の父親を亡くしている。その結果,親戚に預けられ,中学時代には子守をすることが自分の仕事で,まともに中学に行くことができなかったようである。
中学卒業後は大阪の理髪店に丁稚として奉公し,苦労を重ねた。ただ,父はわたしには決して苦労話をしないので,他人から父がそのように言っていたと聞くことによって得た情報である。
体が弱かったので,兵役を免れた一人であった。体が弱かった父が百歳を迎えるのだから,世の中,何がどのようになるか分からないものである。
大阪で肺結核を患い,故郷である興居島(ごごしま)で静養するのが一番だということで,島へ戻ってきた。医者は,どうせ助からないのだから,空気の良いところでうまいものを食べて静養したらというつもりで,島での生活を勧めたようだ。
その後,肺結核は良くなり,借地,借家で,家の一部を改造して,島で理髪店を始めた。わたしが挨拶を自然にできるようになったのは,新聞配達やヨーグルトの配達をして島を駆け巡ったおかげもあるが,この理髪店を訪れてくれるお客さんのおかげであったとも言える。
父は自分の弟に手助けをしてもらいながら,理髪店を経営していた。当時興居島には5,000人以上の人々が暮らしていたが,今では,住人は2,000人を割り込み,まさに過疎地と化している。
島での生活が決して楽なものではなかったことは,わたしが一番よく知っている。
わたしは男のみ3人兄弟の長男である。
今の自分があるのは,父と,自分の命の危険を顧みず,頑張ってわたしを産んでくれた母のおかげである。これだけはわたしが一生,心に留めておかねばならない。
父は理髪業を続けながら,人の役に立ちたいと考えていたようである。父が60歳から80歳くらいまでの間に父に導かれた人,そして世話になった人は数多くいると聞いている。
この人助けの話も父親本人から聞くことはなかった。すべて,導かれた人,助けられた人,また,周りの人から聞いた話である。
父は自分が決めたことに「燃える」タイプの人間で,このDNAをわたしは受け継いでいるように思う。父に助けられた人たちは,もうすでにこの世に別れを告げている。もちろん導かれた人たちはまだ健在で,父と同じような道を歩んでいる。
100年かけて残してくれた父の足跡の一部でも歩みたいと考えているが,父を超えることはわたしにはとうてい不可能であると思っている。
ただ,「人の役に立つ」ということで,父親の真似事ができれば幸せであると考え,日々,「自分の置かれた立場でベストを尽くす」,この姿勢を貫きたいと考えている。