わたしが教師として最初に赴任したのは,東京都町田市の広大な敷地の中に幼稚園から大学院まである玉川学園の中学部であった。
当時,玉川学園では中学部・高等部・大学に塾が用意されていた。
中学部の男子塾を「青雲塾」と呼んでおり,本校の中学寮とほぼ等しい機能を持つ施設であった。
11月2日(日)に,玉川学園中学部の青雲塾で生活を共にした卒業生,約30名が東京赤坂の「四川飯店」に集合した。当時の教員(舎監)も4名参加した。
わたしはこの青雲塾で4年間舎監を務め,4期生から9期生までを担当した。もちろん,英語科の教員としての勤務もあり,文字通り24時間勤務である。
松山を朝1番の飛行機で出発したため,開始時間のお昼の12時までにかなりの時間があり,羽田空港のラウンジでしばらく時間を過ごした。
空港で時間があるときに,空港のラウンジを利用できるのはありがたい。新聞や雑誌が置かれていて,ソフトドリンクも揃っている。
名古屋のセントレア空港のラウンジではスナック菓子まで置かれている。
読書やメール文を作成していると,いつの間にか時間が経過しており,あわてて,ラウンジを飛び出し,モノレールとJR,そして,東京メトロを利用して永田町近くの会場に向かった。
途中,国会議事堂が見えたので,カメラに収めて「四川飯店」に向かった。
40年ぶりに会った卒業生に,「チュータ先生,誰か分かりますか?」と聞かれて,「うーん」とうなったきり,声が出なかった。
「誰それです。」と言われると,すぐにフルネームで名前が出てきた。何年間か寝食を共にしているのだから,当然頭の中に焼き付いている。ただわたしの記憶にあるのは中学時代の彼らの姿である。
40年経過すると,こうも変わるものかと思うほど変わってしまった卒業生もいた。また,中には中学時代の面影をかなり残している卒業生もいて,こちらから「誰それくんだろ。」と声をかける場面もあった。
以前にも「チュータのひとりごと」で紹介したことであるが,この玉川学園中学部と青雲塾での4年間の経験がなければ,今のわたしはないと思っている。
それほど,教育者として濃密な体験を積み重ねることができた4年間であった。
現在も玉川学園は時代の最先端を走る教育を行っているが,その当時もやはり時代を先取りする教育にチャレンジしていた。
教育方針の中に「塾教育」というものがあり,吉田松陰の「松下村塾」の影響を受けていたように思う。
現在,塾は中学,高校,大学を含めてすべて閉鎖されたとのことである。当時の思い出を残す塾舎が新しい校舎に変わっていくのを見ると,やや寂しい気がするのは,塾生活を送ったすべての卒業生や教職員の共通の思いではないだろうか。