トマス・アクィナスに学ぶドミニコ修道会の思想ということで、前回は、トマスの生涯についてかんたんに紹介した上で、彼の主著とされる『神学大全』が、どのように中世ヨーロッパにおける神学を確立させたかを見てみました。
今回は、その続きとして、もうすこしトマスの教えについて学んでいきましょう。
テーマは「善とはなにか」です。
善とは なにか。このことを考える時、その答えのヒントは、聖書の『創世記』第一章の中に書かれています。
「神はこれを見て、良しとされた(1:21)」
「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった(1:31)」
聖書にこのように記されていることから、キリスト教においては、すべての存在するものは神によって創造されたものであるかぎりにおいて根源的に善いものとして肯定されることになります。
つまり、神の被造物(作られた存在)としての人間は、それだけで「善」である、と言えることになるのです。
善と存在に関するこの考え方を最初に提唱したのはアウグスティヌス(354-430)だとされており、それはトマスが生きた時代から900年ほども過去にさかのぼります。
そして、この「存在=善」という考えを、中世になってトマスが確立したとされています。
ところが、人間が存在として「善」なのだとすると、次のような反論が出てくるでしょう。
人間の中には、善人だけでなく悪人もいるし、悪行を行う者も多いではないか。そもそも、「罪」は「悪」ではないのか。現に人類の歴史の中で、戦争や圧政や虐殺がたびたびくり返されてきたが、あれはなんだったというのか。
しかしながら、トマスは『神学大全』の中で、習慣としての「悪徳」や「悪徳的行為」、さらには「罪」について詳細な議論を提示しており、現実世界に存在する「悪」とされる状態・行為に関して、その存在を否定するものではありません。
ただ、今回は、「悪とはなにか」について議論するよりも前に、「善とはなにか」について、
トマスやキリスト教神学がどのように理解しているのかをもうすこし整理しておきましょう。
トマスは、『神学大全』の中で「善」について、次のように説明しています。
(言葉づかいを多少読みやすく改変してあります)
「善」と「有(ものが存在するということ)」とは、ことがらの上ではいずれも同じものなのであり、両者のちがいは単なる概念の上でのちがいにとどまる。
善の善たるゆえん(根拠)は、そのものが望ましいものであるというところにあるのであって、アリストテレスが、「善は万物の希求するところである」といっているゆえん(根拠)もここにある。
それぞれのものは完全であるかぎりにおいて望ましくある。まことに、自らの完全性または完成ということを希求しないものはないのである。
「もの」はそれぞれ、その現実態においてあるかぎり、そのかぎりにおいて完全なのであり、ものは有であるかぎり、そのかぎりにおいて善なのである。
(したがって、)もし、あるものが、当然持っていなくてはならない完全性を究極的な仕方で持ってはいないとするならば、このものは、厳密には完全なものと呼ばれはしないし、厳密には善とも呼ばれないのであって、それはただ、ある限られた仕方で善と呼ばれるにとどまる。
いかがでしょうか。かんちがいしてはならないのは、「人間は存在するかぎりにおいて善である」ということは、「人間はみな善人である」という意味でもなければ、儒教における「性善説」とも異なります。
神の善性のもとに存在していることこそが根源的には善なのであって、すべての存在は究極的な現実態になることを希求しており、そのもののあるべき望ましい姿を手に入れたときに、厳密な意味での善となる、というのです。
しかし、われわれがこの論理について理解できないのは、「では、なぜ悪が存在するのか」「悪とはなにか」「悪はどこからきたのか」という問題が理解できていないからです。そのため、トマスのいう「善」をきちんと理解するためには、トマスが「悪」をどのように説明しているかを学ばなくてはならないのです。
そこで、次回は(いつになるか未定ですが)、トマスが『神学大全』の中で「悪」をどのように説明しているか、異論に対してどのように反論し、論証しているかについて、みてみることにしましょう。
『新共同訳聖書』日本聖書協会
高田三郎訳『神学大全 第1巻』(創文社)1960
絵画の写真は「ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典」より