愛光学園は2013年に創立60周年を迎え、もうすぐ70周年を迎えようとしています。
そんな愛光の歴史について振り返る記事を先月アップしました。
今回は、「初代校長就任の際の裏話」についてみてみましょう。
愛光学園の初代校長は、「田中忠夫」先生ですが、実は最初から田中先生に決まっていたわけではないのです。
それでは以下、校長探しにご苦労された田中先生の奔走ぶりに注目です。
ドミニコ会では当初から田中を校長にと考えていたが、田中は自分なりに校長探しを始めた。
しかし、大阪府で府立高校の校長をしている友人に話を持ちかけたところあっさりと断わられた。ほかに推薦できる人材がいないかと聞いても、重い返事だった。
また、松山で知り合いの現役高校校長に相談したところ、「バラック建て校舎で学校施設が体をなしてない」「経済的裏付けがない」「生徒が集まるかどうかの保障がない」「このような事情の中で引き受ける者は皆無であろう」との見方が示された。
1952年5月、田中はみつ夫人を伴い、懇意にしていたドイツ人のクリセル神父のいる松江へ赴いた。
田中には予感があった。大方が難色を示す状況下にあっては、計画ができても校長を引き受けてくれるような人材はいないのではなかろか。引き受け手がない場合は結局、自分がやらねばならぬのではないか。
クリセル神父を訪ねたのは、その時どう覚悟したらよいかを相談するためだった。
もともと田中は、カトリックの家に生まれ幼児洗礼を受けた、いわば生まれながらのカトリック教徒だったが、学生時代にプロテスタントに転向していた。
その田中がカトリックに回帰したのは、ドイツ留学の際イエズス会に接したことと、留学の直前にクリセル神父に出会ったことからだった。
クリセル神父に岡山の生家で出会い接するうちに、田中は、その学識と信仰姿勢に感銘を受けた。田中には神父が中国地方の片田舎に埋没するような人物とは思えなかったのだ。
そして、そのような田中の疑問に対し、神父は笑って答えた。「自分の任務は、この地に留まってここを死守し、ここに毎日ミサを立てて主キリストのご来臨を仰ぐことである。主がご覧になってほほ笑んでくださるならこれ以上の望みはない」。
校長を引き受けるべきかどうか迷いつつ訪れた田中に、クリセル神父は言った。
「あなたが死んで神様の前で裁きを受ける時、学校を引き受けてよかったと思うでしょう。もし不安に思うことがあれば、条件を出して相談しておいたらよかろう」。
神様に喜ばれる仕事。
信仰者である田中は、クリセル神父のひとことで腹を決めた。
条件はなかった。
田中が校長を正式に引き受けたのは1952年9月だった。
ビセンテ神父らからは条件面の打診があったが、田中は答えた。
「待ってください、私からの条件は何もありません。また、神父さまからの条件も承りたくありません。私は神父さまを信用していますし、神父さまも私を信用してくださっていると思っています。問題があれば、その都度ご相談しながらやっていきましょう」
ドミニコ会は、田中が松山商科大学を辞めてまで校長の職を務めてくれるとは考えていなかった。だから、後任が見つかるまでと田中に打診した。
だが、田中は中途半端な引き受け方はしたくなかった。大学を辞任して学校創立に全精力を傾けようと心に決めていた。
そのすぐ翌日、田中は、伊藤秀夫学長(松山商科大学学長)に事情を説明し、「期末には辞任したい」と申し出た。
数日後、伊藤学長から返事があった。「ほかならぬ教会の事業であるから了解する。しかし、大学も教授難であるから当面は両方を並立してもらいたい」との好意あるものであった。
田中はこののち、1958年3月まで松山商科大学に籍を置いた。同年4月、同大学名誉教授の称号を授与されている。
「愛光学園50年史」 愛光学園 発行(2002)
「愛光二十年」 愛光学園 発行(1972)