チュータ日誌

(2019/01/16)聖ドミニコの愛と祈り(生まれ育ったカレルエガ)

はじめに

聖ドミニコの生涯について紹介する記事をひさしぶりに掲載します。前回は、聖ドミニコの誕生のときについて見てみました。

前回の記事

今回は、ドミニコの幼少期についてみてみます。

ドミニコの幼少期の様子について書かれている文献はほとんどないのですが、ドミニコが育った村や土地や周囲の環境について書かれたものがいくつも存在しています。

 

生まれ育ったカレルエガの土地

古い歴史をもつカスティリア(旧スペインの王国)の高原は、石地で、土地はやせているが、厳しく荒々しい美しさをそなえていた。

乾燥した土地であるため、大きな樹木は川沿いにしか育たず、一年の3分の2もの間、風と雨と雪とが、次々に激しく襲う。夏の間は、厳しい太陽が照りつける。

 

 

 

そこに、カレルエガという小さな貧しい村があった。

高地なので冬は寒く、夏は、樹木がほとんど無いため灼熱の太陽をさえぎるものがなかった。都市部の人間からは、「9か月の冬と3か月の灼熱地獄」だとよばれることもあった。

練土(ねりつち)でできた赤い小さな住居は、遠くから見ると、土地と混同されてしまうような造りだった。

東を見ると、サン·ホルヘの丘のペニア(大岩)が村の上に突き出ている。やはり樹木はほとんどなく、何本かの黒松があるだけである。

 

写真左端に見えているのが、サン・ホルヘの丘のペニア

 

この地に立っていた城が、ドミニコが生まれた城である。ごく小さい城ではあったが、ドミニコの父は、12世紀の初めに、グスマン家の砦の周りに移住して来た農民たちのドミヌス (主)だったのである。

ドミニコの生家の塔。観光名所となっている。

 

ドミニコが生まれた場所に、後に掘られた井戸。 撮影は、2016年の愛光のイタリア・スペイン研修旅行にて。

 

 

7歳までこの地で育ったドミニコが、兄弟たちや村の子供たちといっしょに、丘のペニア(大岩)に登ったことは、疑う余地がない。

 

ここで、彼の幼い目は世界を見た。幼年期の間、毎日彼の目に映っていたのは、その大地の荒々しい厳しさ、見わたすかぎり広がる荒涼たる赤色の高原、そして、はるかかなたの地平線上に浮かぶシエラ·グァダマラの山塊であった。

 

 

岩ばった崖のような丘や高原に囲まれるようにして、小さく貧しい村があった。現在は木々や緑も見られるが、土地はやはり痩せている。

 

 

この大地の貧しさは、人間の心をとりこにするかわりに、その霊魂を本能的に無限なものへ向かわせたにちがいない。

 

ドミニコはカレルエガの子であったが、またレコンクィスタドーレス (再征服者たち) の子でもあった。彼が生まれて成長した時代は、動乱の時代であって、スペインは、一歩一歩、その独立と国土を回復し、その信仰を救うために戦わなければならなかった。

 

マウル人(北アフリカの原住民の一種族)はまだイベリア半島の三分の一を占領していた。周辺では、血で血を洗う戦いが繰り広げられていた。どれほど多くのキリスト者が鎖につながれていたことであろう。

 

また、どれほど多くの背教者が生まれていたことであろう。回教徒たちは、川の河口に強力な陣地を敷いていた。

 

1210年のイベリア半島。中央北部の「CASTILLE」というのがカスティリャ王国。

 

新しい侵攻がいつ起きるかわからなかった。

カレルエガの小さな城のとりででは、毎夜、そこに眠っていた三人の男児に、その国には真の平和のないことを思い起こさせるに十分であった。

 

引用・参考文献

マリ・ドミニク・ポアンスネ 著 岳野慶作 訳 「聖ドミニコ」 サン・パウロ 1999

スール・マリア・ベネディクタOP 「聖ドミニコの生涯」 1989 聖ドミニコ学園後援会(非売品)

写真は、2016年に愛光のイタリア・スペイン研修旅行にてカレルエガを実際に訪れた際に引率教員が撮影したもの

イベリア半島の地図の写真は「ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典」より

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