チュータ日誌

(2019/01/23)よみがえる愛光の歴史(創立準備)

はじめに

もうすぐ創立70周年を迎えようとしている愛光学園の歴史について、創立当初からふり返ってみていく記事を不定期でアップしております。

前回の記事はこちら

今回は、開校の準備として、手探りで教職員を確保しつつ生徒の募集人数を決定するなど、入学案内を作成するまでの田中忠夫先生のご苦労・ご尽力について見てみましょう。

生徒募集

学園開校に当たっては、定員設定が問題であった。

松山地域の小学校を調べたところ、自宅から学園に通学できる小学校6年生の学級が64あることが分かった

このうち公立に比べると高い授業料を払うことができる家庭で、かつ成績も良い子が1学級に平均2人はいるであろうということで割り出したのが、「定員2学級構想」であった。

つまり1学級当たり50人として1学年2学級で100人、中学·高校全体で12学級600人規模である。

 

 

 

創立準備

学園創立の準備は田中の自宅に事務職員の机を置くことから始まった。金井大介が1952年11月にその職に就いた。

 

まずは教師集めが仕事となった。とりあえず専任四人、講師三人が目標だった。同年12月には理科の河井豊、1953年2月には国語·社会の正岡二一が来てくれることになった。

 

以後、開校に間に合わせるべく教師募集が続けられる。教師については、学園開設構想当時から優秀な人材を精選することが至上命題の一つとなっていた。

 

昭和28年11月 他校視察の際の教職員写真

 

建物は城西高校の既存のものを使用することとした。粗末な校舎という点を我慢すれば量的には十分に事足りた。

ただ城西高校には理科の設備がなかったため新たに設備を整える必要があった。理科教室は座板を取り除いてコンクリートの床にすることとした。

 

 

四国ドミニコ会では、必要に応じて、管区本部に資金を請求した。あらかじめ予算を計上するのではなく、「必要に応じて」本部に請求する方法をとった。

 

 

入学案内を作成

田中は入学案内を作成した。

優秀な子がどれだけ応募してくれるか・・・。初年度の成否が全てを決定すると考えた。

優秀な生徒が入学し、本気で教えれば必ず良い結果が得られる

そして、それは引き続いて優秀な生徒の入学につながる。しかしそれと反対の場合もまた考えられる。

だから、運命の鍵は第一歩にあるとの覚悟で臨んだ初年度だった

参考文献

「愛光学園50年史」 愛光学園 発行(2002)

「愛光二十年」 愛光学園 発行(1972)

アーカイブ

All Rights Reserved Copyright AIKO educational institution