チュータ日誌

(2019/02/13)よみがえる愛光の歴史(第一期生入学試験)

はじめに

先週の記事では、田中校長らが創立準備を進め、昭和28年度生徒募集要項が完成したところまでを紹介しました。

前回の記事はこちら

今回は、募集要項をもとに、田中らが説明会や小学校訪問などによって生徒募集を進め、記念すべき第一回入学試験をむかえるところまでを見てみましょう。さらには、田中が「われらの信条」を書き上げたときの裏話についても見てみます。

 

学校説明会

1952(昭和27)年11月17日に「愛光学園」の創設と田中を校長とする旨を公表した後、田中は、同年12月8日に城西高校の講堂において、松山市内と温泉郡の小学校校長(37校、46人)と報道三社を招き、学園創立の説明会を開催した。

これが生徒募集のスタートとなった。

以後、田中と河井は、入学案内を携えて市内の小学校を巡っては、勧誘に努めた。

 

左から二番目が田中 写真中央が河井

 

ある小学校を訪ねた時のことだった。

校長は田中の顔を見るなり「先生、私らのところで、あなたのところへ行くようなのは一人もおりませんぞ」と、にべもなく言い放った。

 

このような反響は、どこへ行っても同じようなもので、なかには田中との面会を断わる学校もあったほどであった。

当時は教職員組合が幅をきかせていたころであったから、成績優秀者を集めるという方針に反感を持たれる傾向があったことは否めない。

 

 

予想を超える応募者

田中らは前途に不安を感じた。しかし、締め切り間際になると次々と応募者が現れ始めた

河井が黒板に応募状況を記入していく。予想外にその数は多かった

また、応募してきた生徒の内申書の内容も想定以上に良かった。優秀者が応募してきているのである。

 

募集要項で優秀大学への挑戦を強調していたものの、創立したばかりの無名校に子弟を入学させるについては父母に不安もあったはずである。

それにもかかわらず応募者数が予想を超えるものであったのは、発足間もない新制中学に対する信頼度の低さを反映していたのかもしれない。

 

田中に厳しい感想をもらした校長自身がわが子を応募させていた

それには、田中個人への信頼の厚さもあった。松山高商、松山経済専門学校時代の田中の名校長ぶりは、それほどに巷間に伝わっていたのだった。

 

願書締め切りの前日、田中は、校長就任時に相談しに行ったクリセル神父と、その甥のヨゼフ·ロゲンドルフ神父(上智大)に電報を打った。

カミニカンシャワガコトナレリ(神に感謝 わが事成れり)

 

入学試験を実施

昭和28(1953)年2月1日、「学校法人城西学園」は「学校法人愛光学園」と名称を変更した。

 

第1回の入学試験は、同月21・22日の両日、宮西町の校舎で実施された。試験科目は国語、算数、作文。応募者は222人であった。内申書も参考にして、111人の合格者を発表した。

 

受験生の集合写真の一部。本人照合のためか受験者全員の集合写真をグループごとに撮影していたようだ

 

われらの信条を書き上げる

入学試験の第一日目のことだった。松山地方は夜半から冷え込み、朝3時ごろには松山では珍しく大雪となった

このことを田中は、「最も印象に残っていること」として後に式典で述べている。

田中はふりしきる雪を眺めつつ、その感動の中で一気に「われらの信条」を書き上げたのだった。

 

 

現在のものとはところどころ言い回しが異なっている。

とくに、「戦禍に傷つき貧苦に悩み、希望を見失わんとしているわが国民のために」などの記述は、当時の日本が置かれていた状況を示唆しており印象的である。

 

参考文献

「愛光学園50年史」 愛光学園 発行(2002)

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