本日も先月に引き続き、聖ドミニコの生涯について紹介していきます。
前回はドミニコの幼少期について見てみましたが、今回はドミニコが、現在の年齢で言うと小学生・中学生の頃に、どこでどのような勉強をしたかについてみてみましょう。
少年ドミニコが6才か7才になったとき、当時の習慣に従って、首席司祭である叔父が彼の教育を引き受け、その叔父の家で同じ年ごろの友だちといっしょに生活しながら、基礎教育や神学を学んでいたと思われる。
子どもたちは詩編集を使ってラテン語と読書を学び、譜面台の上に開かれた羊皮紙の上で、典礼の答唱や賛歌などのグレゴリオ聖歌の歌い方を学んだのであろう。
蝋板(ろうばん)を用いて書くことも習っただろうし、算数、文法の初歩も習ったはずだ。勉強は大変きびしかったものと考えられる。
ドミニコがここで、雄々しい教育と厳しい規律を授けられたことは確かであると考えることができる。
このように小さいときから子どもたちに勉強させるのは、いずれ司祭職に就かせたいためであるが、この時代の小神学校は荒っぽいもので、鞭(むち)や棒は、なくてはならない教育備品であった。
この時代のとある修道院の記録には「この時から、鞭(むち)は彼らを脅やかし続けた」と、書かれている。
聖アウグスティヌスが、「もし、死ぬことと子ども時代にかえることと、どちらかを選べと言われたら、子どもの頃の思い出に戦慄(せんりつ)し、死を選ばない者があろうか」と言った時代と大して変っていないのであった。
1185年ごろ、14歳になったと思われるドミニコは、グミエル·デ·イサンを去って、パレンシアの学校へ行き、ここでそれから約10年間勉強することになる。
当時の子どもたちはわずか14歳になると大学に入学することを許された。が、当時のカスティリア地方で高等教育を受けるという選択の余地はなく、パレンシアが唯一の学問の中心であった。
この学校は当時はまだ「大学」の名称を持っていなかったが、1208年になると大学の名称を与えられ、スペイン最初の大学になったのである。
若いドミニコは、ここで何を学んだのであろうか?
1150年頃に記録されているプログラムによると、まず入門として文法と作詞法、歴史、修辞学を学び、次に論理学を学ぶ。そうした上で、学問そのものに入る。
学問分野としては、まず物理学、医学、航海学、煉金術を学び、次に数学、算術、幾何学と光学、音楽、天文学。
最後に、あらゆる学問の最高を飾るものとして形而上学(けいじじょうがく)を学ぶ。
しかし、当時のパレンシアでは、これらすべてが完璧に実施されていたというよりも、むしろまだ伝統的自由七学科(文法、修辞学、弁証学、算術、幾何、天文学、音楽)の域をそう出ていなかったであろうと考えられる。
マリ・ドミニク・ポアンスネ 著 岳野慶作 訳 「聖ドミニコ」 サン・パウロ 1999
スール・マリア・ベネディクタOP 「聖ドミニコの生涯」 1989 聖ドミニコ学園後援会(非売品)
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