チュータ日誌

(2019/03/13)よみがえる愛光の歴史(開校当初)

はじめに

本日も、愛光学園の歴史についてふりかえってみましょう。

前回の記事では、第一回入学試験が実施され、想像を超える優秀な受験者が大勢集まったこと、田中校長が降りしきる雪を眺めながら「われらの信条」を一気に書き上げたことなどを紹介しました。

前回の記事はこちら

今回は、いよいよ開校することとなった愛光学園の、開校当初の様子についてみてみましょう。

 

校長自ら雑巾がけ

1953(昭和28)年4月1日、111人の新入生を迎えて第一回入学式および開校式が行われる。

この前日、田中校長以下4人の教師と1人の事務職員は、教室、廊下はもちろん、羽目板下駄箱、便所などに入念に雑巾がけをして回った。

 

その時の信条を、のちに田中は次のように語っている。

「”われらの信条”を受け入れてくれますなら、生徒は皆、徳に優れて、徳に芳しく知性に秀でて英知に光り輝く人物に成長するはずであり、明日はその貴公子を迎えることになると考えたのであります。

たとえ建物は貧しくとも、わが学園は日本の精神的王者を育てる聖なる場所であり、かかる聖所の清掃を他人に任せてはおけぬと考えたからであります」

 

「生徒必携」

「生徒必携」は、1954年2月に、ガリ版刷りのものが生徒に配布された。

内容は礼儀、教室内の心得、禁止事項、生活規則の精神など、学校内外における心構えが盛り込まれており、田中校長や教師が折に触れて内容説明を繰り返した。

特に「われらの信条」は暗唱できるよう指導した。

生徒必携はその後、1961年4月に「生徒手帳」と名称を変え、内容をさらに充実させ装丁も改めてポケット版となった。

 

質実剛健のプリンス

“プリンス”たちへの教育は厳格に、そして情熱を込めてのものであった。「われらの信条」「黙想」「正座」「中間体操」などを通して、礼儀や忍耐を教えた。

なお戦前の気風が残る時代とあいまって、 開校当初は素朴で質実剛健の校風が醸成された。

 

 

愛光の子はすぐ分かる

「生徒必携」の規範に従っての生活は、学園開校当時の生徒にはよく守られた。礼儀正しい態度に町での評価も高く、「旧制の中学生を思い出させる「愛光の生徒はすぐ分かる」ともいわれた。

 

 

「黙想」

黙想は開校直後から厳格に実施された。

心を静め集中力を増す」ことなどを狙いとしており、「始業ベルが鳴り始めると同時に動きを停止し、声を出してはならない。直ちにその場で黙想を始める。廊下を歩いている者もその場で直立する」といったもので、

ボール投げをしている者は、手を振り上げたままベル終了までの約十五秒間、黙想を続ける光景も見受けられた。

 

開校間もなくのころの教師の思い出として、「ある時には、教室に入るのが10分ほど遅れたが、生徒たちは黙想のまま教師を待っていた」と語られている。

チャイムが鳴ると、運動場や廊下であっても、直立不動で黙想を励行していた

廊下で正座

授業における”しつけ”は厳しいものがあった。黙想を怠ったり、忘れ物をしたりすると即座に正座をさせられた

私語をすると授業が終わるまで廊下で正座させられた。また、忘れ物をすると椅子から降り、膝立てで机に向かわねばならなかった

その他、校内外の生活についても注意を払い、生徒のおこないの一つひとつを職員会議で検討し、処分を決めた。

 

 

バンカラ

愛光の生徒であることを印象づけることとなる「夏の登山帽」は父母会の服装委員会で決められ、1956年度から着用した。登山帽は日射病防止のためで、ドミニコ会の紋章の入ったバッジを付けた。

シャツは半袖、ズボンは霜降りで、その服装は学校外でも一目で愛光の生徒と分かるものであった。

 

1957年度からは、高校生の荷物入れについて、従来のかばんに代えて、生徒の支持が圧倒的に多かった「黒ふろしき」が採用された。

これら開校時代の服装、備品は男子校らしいシンプルなもので、大いに”質実剛健”ぶりをアピールした。生徒自身もバンカラ的なものへの憧れがなお残っている世代であったことを物語るものであった。

 

※バンカラ・・・明治31年頃に、西洋風をあらわす「ハイカラ」(英語のhigh collarから)という用語が流行したが、それに対立するものとして、粗末で荒々しいさまを示して「蛮カラ」という表現・気風も生まれた。

 

参考文献

「愛光学園50年史」 愛光学園 発行(2002)

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