チュータ日誌

(2019/07/04)よみがえる愛光の歴史(教育内容の充実 1953~)

はじめに

もうすぐ創立70周年を迎えようとしている愛光学園の歴史について、創立当初からふり返ってみていく記事を不定期でアップしております。

前回の記事では、「カリキュラム」についてご紹介しました。

前回の記事はこちら

今回は、創立後の教育内容の充実についてご紹介します。

 

 

教師陣の整備

田中校長を含め6人でスタートした教師陣も、学年の増加に伴い教師の確保が急務となった。田中校長の人脈などを通じて、新しい教師が次々と学園の教壇に立つようになる。

開校当初の教師陣。高知の学校視察の際の様子。

 

教師探しは松山高等商業学校時代から田中校長の得意技の一つといわれていたが、本学園でも、その技が発揮され、校長自らが募集に赴いた。

 

人数は、創立2年目の1954年度は15人となり、以降も順調に増加し、中学·高校の全学年12学級が揃った1958年度には25人となった。

 

教師は学歴·キャリアとも優れた人材が多く、その面でも「愛光」の特異さを教育界や社会に印象付け、父兄の期待を集めるものとなった。特に教師の採用に当たっては専門性が重視された。

 

 

顕著に学力向上

濃密な授業内容は、学力に直ちに反映した。

 

開校直後の1953年4月のテストでは、総平均80点以上の生徒が8人、60点以下が49人であったが、

7月の期末試験では、80点以上が31人、60点以下が9人と、成績分布が飛躍的に改善した。

 

田中校長も「旧制松山中学よりも、いささか優れている」との自負を語るなど学園の教育方針に自信を深めるものとなった。

 

 

弁論大会で好成績

学園の教育レベルは対外的にも好成績となって表れた。

 

1953年10月の「第五回高松宮杯全日本中学校英語弁論大会愛媛県大会」で、

1年生の生徒が3位に入賞、1955年の「第七回大会」では3年生の生徒が県大会で第1位となり、全国大会へ進出した。

1956年には県大会の1位と3位を占め、1位の生徒がその後の全国大会でも10位に入賞するという成果を挙げた。

 

以後も1959年まで毎年同大会に参加して好成績を続けたが、平常の授業に支障があると判断したため、参加を中止した。

 

 

文科·理科の二コース

高校部発足(1956年度)に当たり、進学コース別にクラス編成が行われ、2年生から文科と理科の2コースとした。

 

二年生から大学受験に照準を置くためで、生徒一人ひとりの適性と進路を慎重に見極め、文系は国語、社会、理系は数学·理科の学習時間を多くする備えをした。

 

能力別学級編成の試み

1958年度の新学期から高校生を対象とした能力別学級編成が行われた。

この試みについては、教員間でも激論が交わされたが、生徒間の成績差に対応するために実施に踏み切った。

 

Aクラスが優秀クラス、Bクラスはそれ以下とするもので、前年度の成績を参考とした。

授業内容では英語、数学の進度を変え、テストも異なったものとした。後にクラス分けは中学三年まで拡大された。

 

しかし、結果として期待したほどの効果が上がらない科目もある上、成績上位者がその他の者に刺激を与える効果が失われたこと、Bクラスとなった生徒の劣等感への対応、教師の負担増 などの問題が出た。

 

継続か廃止かについて熱心な論議があったが、さまざまな角度から検討した末、1963年度から能力別クラス編成は中止することとなった。

 

 

参考文献

「愛光学園50年史」 愛光学園 発行(2002)

 

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