チュータ日誌

(2019/07/08)聖ドミニコの愛と祈り(異端者との出会い その1)

はじめに

ドミニコ会の創立者である、聖ドミニコの生涯についての記事を不定期で掲載しています。

前回の記事はこちら

今回は、オスマの司教座聖堂参事会の副会長となったドミニコが、彼のその後の人生を決定づけたともいえる出来事に遭遇します。

彼がデンマークへの旅先で見た世間の現実とは、一体どんなものだったのでしょうか。

ドミニコ、デンマークへの旅に出る

1203年5月、ドミニコはオスマの司教ディエゴに伴い、デンマークに向けてスペインを出発した。

 

ディエゴは、ドミニコをオスマの参事会員に誘った際には、参事会会長の身分であったが、司教マルチノの没後、ディエゴが司教を継いでいたのだ。

 

この旅は、カスティリア王アルフォンソ8世の命を受けてのものだった。アルフォンソ8世は、自分の王国とデンマークの王国との間に同盟を結びたいと望み、その息子フェルナンドと遠いデンマークの貴族の姫とを結婚させようと考えた。

 

アルフォンソ8世。カスティリア王(1155-1214)

 

そこで、王はその使者として、オスマの司教ディエゴを選んだ。司教のかたわらには、参事会副会長のドミニコが付き添っていた。

 

 

一行は、ピレネー山を越えると間もなく、異端者の国にさしかかった。一行のうち、だれ一人として、フランス南部が異端に毒されていることを知らない者はなかった。

南フランスのアルビという小さな都市とその周辺に異端者が多くいた

 

異端者たちは、アルフォンソ8世の使節団に、疑い深い目を向け、これを愚ろうし、これに罵言を浴びせた。

 

とりわけ、カタール派(カタリ派ともいう)と呼ばれる急進的な異端の一派が、多くの貧しい人たちを引きこんでいた。彼らは、きわめて巧みに貴族たちに取り入っていた。領主たちもすでにその大部分が、封建制度下のキリスト教会で守られていた法律に反し、異端者をその領内に受け入れていた。

 

 

異端者たちは熱烈な活動によって、ますます多くの信者を引き入れていた。悪とか苦しみとかに関する悩ましい問題に対して、「明快な答え」が提供された。当時の人たちはみなこれを待ち望んでいたのである。

 

カタール派(カタリ派)とは

カタール派は、8世紀から10世紀にかけてアルメニアやブルガリアに盛んに流布された古い二元論を再び取り上げて、二つの神が存在すると教えた。

カタリ派などの善悪二元論の宗派の地域的変遷

 

 

善神と悪神とがこれである。善神とは、福音に教えられている神で、霊的世界だけの創造者である。

 

悪神とは、旧約聖書の神で、物質という悪い世界の創造は、この悪神の仕業である。そうなると、カトリック信仰の土台そのものが崩れ、神の子の受肉は認められないことになる。

世界を創造したのはサタンであるとされた

彼らによれば、キリストはただ外見的に肉体を着けたにすぎない。したがって、苦しむことはないし、肉体の復活もない。物質は悪であり、結婚の結果である出産も悪である。

 

死は最高の解放である。なぜなら、霊魂を肉体から解放して、これを天使の仲間に入れるからである。地獄もなければ、煉獄もない。

 

まだ「信者」にすぎない人々は、その清めが死の瞬間までに完成していないならば、後の世で、一度あるいは数度、再受肉を続けなければならない。

が、「完全者」と呼ばれる彼らのうちの指導的な地位にある者は絶対的な清浄の中に生きている、と教えられた。

 

こうして、東洋の古い輪廻(りんね)説が、欲求不満な人々の想像をかきたてるようになった。彼らの大部分は字が読めず、キリストの真理のメッセージを理解することができなかったのである。

 

引用・参考文献

マリ・ドミニク・ポアンスネ 著 岳野慶作 訳 「聖ドミニコ」 サン・パウロ 1999

挿絵・写真は「ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典」より

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