先週に引き続き、「聖ドミニコ」の生涯についてご紹介しましょう。
1206年6月、ディエゴ(オスマ司教)と、その同伴者ドミニコ(オスマ参事会副会長)は、モンペリエに到着し、
異端派に対する説教活動がうまくいかずに途方に暮れているシトー会の修道士たちの集会に出くわします(のちに「モンペリエ会議」と呼ばれるようになる)。
そこで、ディエゴはどのような提案をしたのでしょうか。
それでは、以下、みてみましょう。
教皇から対異端活動の勅命を受けた勅使たちの努力にもかかわらず、あまり効果をあげなかった。
勅使たちの説教を受けても、異端派から改宗する者は少なかった。 勅使が最も失望したのはこの点だった。
彼らは、ディエゴとドミニコに、「二年半の活動で、ほとんど何も得られなかった」と打ち明けている。
しかも、その原因は、自分たちの側にあると認めなければならないのであった。
「聖職者たちがしっかりしていない。しかし、もし聖職者たちを矯正しようとするなら、それに時間を全部とられてしまって説教をすることができない」
こうして、一見、解決の糸口のない状況、いずれにせよ自分たちの任務を全うすることのできない状況になっていたのである。
ディエゴ司教の答えは、彼の偉大さを示す。
「大切なのは、真理を説くことであり説教でたりる。
ただし、異端者らがキリストの弟子に最もふさわしいやり方として、徒歩で二人ずつ、金銭も何も持たず、食物は托鉢(たくはつ)しながら説教しているように、
教皇の勅使たちも、騎馬で従者をひき連れて行っていた今までのやり方に変えて、
キリストが弟子たちを派遣なさったときのように、
徒歩で、金も銀も持たず、言葉に行いを合わせて説教すること」
これがディエゴ司教のすすめであった。
勅使たちは当惑した。
そのようなことをすれば、教皇の権威が軽んじられることにならないだろうか。
また、説教と托鉢の間に絶対的関係があるとする異端者の誤謬に荷担することになって、民衆を困乱させないだろうか。
しかし、次第に彼らの心は動いていく。
「もし、真に権威のある人が、まず、そのようにして、説教するなら、自分たちも喜んでそうしよう」
激しい気性のディエゴ司教は、すでにその覚悟ができていた。
彼は、すぐに従者と旅の必品すべて、馬も荷物も全部オスマに帰し、ドミニコと二人だけになった。
この時、ドミニコがどう感じたか、記録は何も残っていない。
しかし、その後の彼の行動をみるなら、彼が心からこれを承諾し、自分のものとしていることがわかる。
この後、オスマ、ツールーズ、デンマーク、ローマと、十年にわたって、
ドミニコはディエゴ司教の伴侶として、祈りも宣教活動も疲労も、
生活のすべてをわかち合うことになるのだ。
二人の目指すものは、もう、別ちがたいものになっていた。
ドミニコにとって、ただひとつのことが大切となる。
「ことばと行いで、隣人の霊魂の真の必要にこたえ得る者となること」(のちのドミニコ会の最初の会憲文より)、がそれである。
スール・マリア・ベネディクタOP 「聖ドミニコの生涯」 聖ドミニコ学園後援会 1989(非売品)
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